1/17/2010

恋しい家こそ(リクエスト・ノートより Ⅱ)

ある晩、とある曲を弾き終えた時、昔からの知人が話しかけてきた。
「それそれ、その曲。もう一回、演ってくれないか?」 軽く頷き、彼の為にもう一度、弾いた。
彼は首を振りながら楽しげに聞いていたが、暫く黙りこんでから ある話を語り始めた。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


…10年程前に死んだ親父は、熟練の機械工でね。元来無口な父親だったから、
俺とまともに話したことなんか、唯の一度も無かった。俺が一番覚えている親父の姿は
毎朝早い時刻に玄関を出る時の、あの後ろ姿だ。本当に仕事一筋に生きた人で…何十年
もの間、一日中ずっと仕事場に詰めていた。あの姿は今でも目に焼き付いている。

親父が死んじまってから何年も経って、やっと最近遺品の整理をしようと重い腰を
上げたんだ。遺品って言っても、大した物は何にも無いんだけどね。少々の衣類や書類、
…まあそんなものさ。僅かばかりの荷物の中に、古いトランクがあった。そのトランクは
皮で出来た、年季の入った代物でね。そのトランクがあることは前から知ってはいたが
お袋も俺も、その中に何が入っているかは全く知らなかった。

ある晩、俺はそのトランクを初めて開けてみることにした。トランクを開けて、心底驚いた。
その中に入っていたのはトランペットだったんだ。そしてトランペットと一緒に入っていたのは、
手書きの譜面────────
どうやら親父が書いたらしい、古びた楽譜の束だった。

その晩、俺はお袋に何が入っていたかを伝え、これがどういう意味なのかを聞いたよ。
親父は若い時分、トランペット吹きだったらしい。その腕前がどれ程のものだったかは
今となっては知る由も無いが、どうも金にならない仕事ばかり引き受けては吹いていたそうだ。
当然毎日の食べ物にも事欠く生活だったらしい。…そしてある日、とうとう親父は
そのトランペットを何処かに仕舞い込んだきり、二度と吹かなくなったそうだ。
──────丁度母親と結婚して、俺が生まれる頃の話だ。

それからの親父はトランペットを吹く事は一切無くなり、俺の知ってる親父─────
仕事人間になったそうだ。ただ、唯一残った趣味があったらしい。それが「作曲」だった
らしいんだ。昔、NHKで放送していた「あなたのメロディー」っていう番組、知ってるかい?
素人が楽譜で応募した曲のうち、毎週何曲かが取り上げて紹介する番組。親父はその番組に
何曲も熱心に応募していたらしく、番組で取り上げられた事もあったそうだ…

《あなたのメロディー》あなたのメロディーは1963年-1985年にNHK総合テレビジョンで放送された視聴者参加型の音楽番組。視聴者からオリジナル曲(基本は作詞・作曲)を譜面にて公募し、応募曲の中で優れたものを、毎週5曲程プロの歌手による歌唱で発表する、といった趣向の内容だった。北島三郎の代表作である「与作」や、"みんなのうた"で坂本龍一がアレンジを手掛けて話題を呼んだ「コンピューターおばあちゃん」等は、この番組から生まれた。

家族を守る為に、ずっと働き詰めの毎日。親父はその中で僅かばかりの暇を見つけては
自室に篭って楽器も使わずに作曲をしていたんだな。元来無口な親父の事、ましてや
音楽の話なんか唯の一度だって聞いたことは無かった。。
俺は本当に何にも知らなかった…

俺と親父はそんな疎遠な親子だったけれど、親父と音楽と言うと、たった一つだけ
覚えていることがある。酒を飲んでほろ酔い気分の時。仕事がひと段落した晩。
親父はそんな時には 決まって鼻歌を歌ってた。その曲がこの歌なのさ。
"MY BLUE HEARVEN"、さ。

When whippoorwills call and evening is nigh,
I hurry to my Blue Heaven.
A turn to the right, a little white light,
Will lead me to my Blue Heaven....

親父と音楽のことを何も知らないまま育って、今や定年間近のサラリーマンになった俺だが
学生時代に始めたコーラスは今でも続いているし、5年ほど前からはチェロを習い始めた。
それを聞いた時、お袋は 「やっぱり親子なんだなあ、似ているんだなあ」って嬉しく
思ったそうだ。こんな俺を、親父はどう思うかなあ。聞いてみたいなあ…

ごく普通のありきたりな家庭だったが、それこそが親父にとっては
かけがえのないモノだったんだな。この歳になって、やっと分かる気がするんだ。
親父の気持ちが…


夕暮れに 仰ぎ見る 輝く青空
日暮れて 辿(たど)るは わが家の細道

せまいながらも 楽しい我家
愛の灯影(ほかげ)のさすところ

恋しい家こそ、 私の青空


◆ ◆ ◆ ◆ ◆




・・・・この話は、実は ここでは終わらない。

この話を聞いてから半年ほど経った或る日。
件の彼が店に訪れて 「○月○日、店を貸切りにしたい」と店主に申し出た。
オーナーは最初浮かない顔をしていたもののやがてOKを出し、その日を迎えた。

当日。約束の時間になっても誰一人訪れない。彼からの連絡も無いままだった。
オーナーは ” やっぱり ” という顔をして、通常営業に切り替えた。

オーナーに尋ねると、「うーん、彼はお馴染みさんなんだけどね。昔からこういう事が
度々あるんだよ」と苦笑いを浮かべた。少なからず驚いて前述の話をすると、オーナーは
笑って「彼は調子よく話をする人だから。その話も 果たして本当かどうか…」と言った。

その何か月か後、彼がフラリと現れた。
オーナーと談笑しながら、楽しげに酒を飲んでいる。その人なつこい横顔を見ながら、
ふと、『話の真偽なんて、確かめる必要なんかないや』と思った。

彼の親父さんがペット吹きでもそうで無くても、
もしかしたら健在でいらっしゃるとしても、
"MY BLUE HEAVEN"が好きでも嫌いでも、例え知らなくっても、
そんなこと、どっちでもいいじゃない ──────


◆ ◆ ◆ ◆ ◆


この曲を選曲するたびに、
会った事のない老齢の男性がおぼろげに心に浮かぶ。
その男性はつなぎの作業着姿で、いつもニコニコと笑っている。

そして、自分も楽しく弾き始める。
幻の彼の親父さんに、楽しんで貰えるように。