10/04/2009

言葉が消えてゆく




失語症の患者さんによると、「言葉が聞こえるそばから言葉が消えてゆく」のだそうです。


失語症(aphasia)とは、主には脳出血・脳梗塞などの脳血管障害によって脳の言語機能の中枢(言語野)が損傷されることにより、一旦獲得した言語機能(聞く、話すといった音声に関わる機能、読む、書くといった文字に関わる機能)が障害された状態のことで、言葉による表現障害の重さは大きく幅があり、障害が重い場合、意味のある言葉は全く話せず唸り声のみとなり、表現障害が軽い場合、発音の誤りや単語の誤りが時として生じる程度だそうです。

言葉を言おうとすると「言葉が消えて」しまったり、「意図した音と異なる音が口から出てくる」そうで言葉全般が出にくくなるようです。
また、音声による表現だけでなく文字による表現も障害され、筆談も困難になるのが失語症の特徴です。





小山 清(こやま きよし 1911年-1965年3月6日)小説家。
1940年(昭和15年)に太宰治の門人となり太宰に預けていた原稿が売れるようになり作家となる。


晩年、臓障害による脳血栓から失語症に陥り、失意の中で「老人と鳩」(昭和37年)書き上げる。
内容は失語症の老人とコーヒー店「ハト」の娘との日常の何気ない会話のやりとりが淡々と描かれている。
「文体」が素晴らしくまるで「詩」のようだ。失語症の為であろうか、文章に「、」がかなり多く使われ文章も短く直に「。」で結ばれる。


~鳩がいた。野原の向こうに小さい川が流れていて、そこに家があった。家の傍に小さい小屋があった。
鳩の部屋であった。老人は散歩に来ていたが、これまで、何も見えなっかたから。たまたま、散歩に来て、鳩の部屋を見つけた。~
【 老人と鳩 】文中より


句読点が多く使われる事によって「リズム」が生まれて、言葉と言葉の間に、文章と文章の間に作者の世界観が伺え、その言葉の持つ「響き」が作者の世界観をより引き立てている。
つまり作者の「告白または、つぶやき」とでも云おうか口語的文章に感じ、より生々しく感じ取られる。
作者の「孤独感」が内面的に向かわず、何処か「開かれてい感」がするのはその様な理由かもしれない。


(言葉の持つ「響き」については、恐らく子音から母音への移行部[過渡部、フォルマントの遷移部]に語音認知の手がかりがあるとされていたが、認知の手がかりとして子音は過渡部より強力らしく、子音にある音の方が認知しやすいと云う事も少なからず関係していると思う。)




義太夫節の特徴は「歌う」要素を極端に排して、「語り」における叙事性と重厚さを極限まで追求したところにある。「間」の緊迫、言葉や音づかいに対する意識、一曲のドラマツルギーを「語り」によって立体的に描きあげる構成力、そのいずれをとっても義太夫こそは浄瑠璃におけるひとつの完成形である。

作者の生家は「兼東楼」という貸座敷業を営んでいたが、盲目の父は家業に関係せず義太夫を謡っていたことが関係しているかどうかは判らないが、少なくとも作者が作家である手段の「文章を書く」ことを失語症により排し、物語を「語る」。


秋の夜長に作家の語りに耳を傾ける、、、そんな1冊、否、1曲です。





【参考資料】

・新 ちくま文学の森 16 心にのこった話 (筑摩書房)
・東京都神経科学総合研究所 web(http://tmin.ac.jp/index.html)