11/29/2009

Interplay ~Ⅲ~ ラヂオ・デイズ【ラヂオの夜明け 《前編》】



~「アー、アー。聞こえますか。JOAK、ジェーィ、オーゥ、エーィ、ケーィ、
こちらは東京放送局であります。こんにち只今より、放送を開始致します」~



1925(大正14)年3月22日 朝9時30分、日本におけるラジオ放送の第一声が
このマイクから流れた。これはウエスタン373ダブルボタンマイクロフォンで
アメリカ・ウエスタン社製。同年7月 愛宕山にて本放送が開始された。

~ひとと音楽との出会い~
一般的に"人生初の音楽との出会い"は、まずもって聴くことから始まるのだと思う。
また記録媒体としての音楽のフォーマットは古くはSPからLP、TAPE、CD等々
時代によって様々な変遷を遂げてきた。それらを楽しむ方法も、町の個人商店に始まり
大手チェーン店、レンタルショップなどの店舗や雑誌、そしてMTVに代表される音楽
情報番組などの時代を経て、今やi-Podやネット上でのダウンロードへ…と広く多様な
文化として今日に至っている。それらを大きく総称して"音楽メディア"と呼ぶとして、
そもそもの出発点 つまり音楽が媒体として初めて形となって登場した原点は
"ラジオ"なのではないか…と考えた。


~"放送のふるさと"へ~
文化としての音楽、社会の中での音楽を考える過程において"音楽を聴く"という行為の
出発地点、インフラ、メディアの黎明期としてのラジオが担った大きな役割を考えてみたい。
そこで今回のフィールド・ワークは港区愛宕山にある「NHK放送博物館」を訪れてみることにした

NHK放送博物館(NHK Museum of Broadcasting)

日本放送協会が運営する放送に関する博物館。
NHK発祥の地である愛宕山に世界初の放送専門博物館として1956年に開館。
開館当時は愛宕山放送局の局舎を使用していた。現在の建物は1968年に 新築
されたもの。玉音盤など約2万件の放送資料と約6,500点の放送関係図書を所蔵
している。館内にはそれぞれの時代のラジオ受信機やテレビ受像機が展示され、
それらの動態保存(実際に動作する状態で保存・展示)にも努めている。



とある日曜日。午後の遅い時間だったせいか十一月の曇天の気候のせいかは分からないが、
休日だというのに博物館周辺や館内は人もまばらで閑散とした雰囲気に包まれていた。
エントランス付近には設置された大きなモニター画面──
周囲に立てられた幟には"デジタル・ハイビジョン…"と書かれてあるのが見て取れる。
公共の施設のようなしっかりとした造りの建物。そう、古い図書館といった感じか。
内部は何層かに分けて展示室が配置されているらしく意外に奥行はありそうだ。

階段を上り幾つかの展示スペースを観て回り、ラジオ放送機具の一角に辿り着いた。
其処は暗く調光された空間になっていて、所々に配された薄ぼんやりとしたスポットライト
の先には、まさしく往年の"ラヂオ"の筐体が──その木製の輪郭やマイクの金属部分の
鈍い輝きが浮かび上がって見えた。


静かに並ぶ歴代のラジオ受信機たち。歩みを進めるに従い、ごく初期の鉱石式にはじまり
真空管、そしてトランジスタへと、こうして見ると各時代の先端技術の変遷がよく解かる。
時代毎の放送機具や受信機の変遷とは、つまり技術の進歩やメディアの発展の証とも言えるし、
さらには国民生活の所得や経済の変遷・発展の表れでもある──
そんな説明書きのパネルをしばし眺めた。


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~1925年へと思いを巡らす~
膨大な放送機材・放送資料を観ていくうちに1つの疑問が浮かんだ。
『1925年とは、どんな年だったのだろう?』

アメリカは第一次世界大戦が終了し、その恩恵を受けた結果としてアメリカの株式市場が急騰。
自動車・航空・通信産業のみならず、芸術や建築等のリベラル・アートも活性化した年であり
1929年の株式市場の暴落までを称して"ジャズ・エイジ、ローリング・トゥエンティーズ"
等と呼ばれる時代であった。例えば ウディ・アレンの自伝的作品/映画『ラジオ・デイズ』には
既に最先端で先進的だった大都市ニューヨークでのその頃の市民生活の様式が描かれていて、
作品中にはラジオと映画に夢躍らせたアレン少年が登場する。

『ラジオ・デイズ』中でも特に印象的だったのは、SPなどのアナログ音源や蓄音機ですら
庶民にとって高嶺の花だった時代に、もっとも広く人々に親しまれて音楽と庶民の架け橋・
パイプ役となったのはラジオに他ならなかった…という点だ。

居間に置かれたラジオから流れてくるグレン・ミラーやベニー・グッドマンの公開生放送──
それらを家族揃って聴き、時に耳慣れない音楽に耳をそば立てる…といった光景は、
従来の上流階級の舞踏会や豪華なホールでのコンサートであるとか、夜の酒場や社交に集う大人だけの、
ある意味閉ざされた世界とは別次元の聴衆の創出の事実を示唆していると思うからだ。


さて 日本に目を向けてみよう。好景気に沸いたアメリカの影響を受けたわが国では
大戦の特需景気で、繊維・造船・製鉄等の製造業や海運業が大いに発展した。
好景気を追い風に東京や大阪などの大都市では百貨店が賑々しく営業し、
レコード・蓄音機・ラジオ等も輸入量が激増した頃である。

それらは幼児期における音楽教育にも変化をもたらした。特に1925年7月に放送されていた
ラジオの音楽プログラム"子供の時間"はある意味画期的だったのかも知れない。
当時、多くの初等科に於ける音楽教育とは"唱歌を歌う事"が中心で、洋楽を中心とした
"音楽鑑賞"という教育形態がどれ程大きな役割を担ったものであったかは
想像に難くないだろう。

また同時代の中国では軍閥が割拠し、列強による植民地支配も行われていた。
中でも上海ではナイトクラブ・ショービジネスが繁栄していた時期でもあり、斎藤 憐の著作による戯曲 
「上海バンスキング」のアイデアになった事も付け加えたいと思う。

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・・・暫らくして、人の気配を感じた。

我々のすぐ後ろを30代前半と思しき一組の男女が通りすがる。 現代風なファッションに身を包んだ女性は、いかにも興味薄な表情で辺りを眺めている。対する男性の方も何かの目的があって来たようには見えず、時折携帯電話を覗き込んでいた。      

何処かしら遊歩の帰りに偶然寄ったのだろうか?            
雰囲気から察するに、二人で一緒に居ること自体が目的のようで 見物もそこそこに足早に順路を急ぐ二人。なるほど…此処はデートコースにはあまり似つかわしくないのかも知れない。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 以下、後編へ続く ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今回のフィールド・ワークは長編となったため、一旦 ここまでにさせて頂こうと思う。
【ラヂオの夜明け ≪後編≫】では所蔵の玉音盤、ラジオドラマについての考察をメインにお送り致します。

《後編》はこちら